・2009/03/29 「考えるという行為」
「学校で習う算数や数学は要らない。無くても生きていける。」とよく聞く。
確かに公式などは知らなくても生きていけるだろう。
しかし、算数や数学の授業は公式を覚える事だとは思わない。
そんな事よりも、「物事を考える」という能力を養うための授業だと思っている。
私は映画村で玉すだれの仕事の時、お客さんが玉すだれに興味がある時には好きに触ってもらう事にしている。
だから仕事用の玉すだれ以外に、お客さん用の玉すだれも 3セット持ち歩いている。
今日も映画村は「さくらまつり」の為、大勢のお客様にお越しいただいた。
そして、園児から小学校六年生までと、たくさんの子供達にその玉すだれで遊んでもらった。
そこで起きた事。
玉すだれを全部握り締めていれば、もちろん玉すだれは伸びない。
(当たり前の事だが、)伸びていく部分を握らずに、下にぶらぶらさせていなければならない。
その事に多くの子供が気付かない。全部を握り締めて何度も何度も手を振っている。
さて、その次。
玉すだれは一方向にしか伸びない。それで逆に持ってしまうと、玉すだれが前に伸びずに後ろに伸びてしまう。
そこで今度は、子供達は「???」となってしまう。
「あぁ、逆に持てばいいんだ !」と気付かない子も多い。
その次。
魚釣り竿が出来たとしよう。不用意に伸ばし過ぎて 3メートル・4メートルになる。
その事自体は良いのだが、今度は元に戻せない。
玉すだれの両端を両手に持って、一生懸命に玉すだれを振っている。元に戻る訳がない。
さぁ、「端から順々に戻せばいいんだ」と気付いたとしよう。
途中で、(文字だけで表現するのは、かなり難しいが)一本の棒が隣の棒と棒の間に挟まる。
すると、糸が邪魔になってそれ以上に元に戻せなくなってしまう。
そんな時は、もう一度伸ばして、再度戻そうとすると大抵うまくいくのだが、
「どうすれば良いのか」
なんて事を考えずに、無理矢理押し込もうとしたり、捻ったりしている。
伸ばしただけなので、捻ったりするとどんどんややこしくなっていくのだが、そんな事はお構いなしのようだ。
そんなこんなで、3分・5分経ってしまう。
もちろん、そんな根気がある子ばかりではない。
二三度、無理矢理押し込もうとした後あきらめて、私に助けを求める子、
玉すだれで遊ぶ事をあきらめて返しに来る子、ほっぽり出してどこかへ行ってしまう子、様々である。
親に救いを求める子もいる。さ、親が元に戻そうとする。
親も同様である。無理矢理押し込もうとしたり、ねじったり、ひねったり・・。
「どうすれば元に戻るか」
なんて考えずに、「おじちゃん(私の事)に返しておいで !」となる。
伸ばしただけの玉すだれを元に戻すのに、なぜ 5分も10分もかかるのか・・。
一回捻って「鯛」なんて作ったりしたら、無理矢理元に戻そうとして、とんでもない事になっている・・。
捻り過ぎて糸が切れたとしても気付いていない。とりあえず、ねじる、押し込むしか方法がないのである。
大人も子供も同じである。(もちろん、そんな親子ばかりでない事を、ここでお断りしておきます。)
なんでもかんでも便利な物が増えてきて、ボタンを押せば答を教えてくれる世の中になり、
人間はますます「考えるという行為」をしなくなったのでないかと思う。
(Mar 29,2009)
・09/28 「ボイコット ?」
先日、寺子屋での出来事です。
12:45からの寺子屋は A小学校さん一校だけの予約の授業の予定でした。
ですが、当日、急に B小学校さんも授業を受けたいとの申し出がありました。
二校が合同の授業の場合は いつも両方の小学校さんに了解を得ています。
そこで、営業部が A小学校さんに話に行ったところ、A小学校の答えは「NO!」
確かに、二校合同の授業の際は、児童たちがお互いの児童たちを意識して、
一校単独の場合よりは 盛り上がりが少なくなることはよくあります。
そのことを危惧しての「NO!」なのかも知れませんが、他の人と同席するなんてことは 大人の社会でもよくあること。
そんな場を経験することも勉強のうちだと思うし、むしろ、同じ授業を受けることで、
違う小学校の児童たちとも仲良くなって欲しいという考えが私の中にはあります。
そして、たくさんの児童たちに「寺子屋」の授業を受けて欲し。
先生たちにとって見ても、他の小学校の様子を目にすることで、得る物が少なからずあると思っています。
ちなみに、この二つの小学校が同時に寺子屋に入っても、人数的な空間的な問題からも何も問題はありません。
その後も、営業部がなんとか A小学校に掛け合ってくれて、なんとか「二校合同の授業」ということに なりました。
さぁ、授業が始まりました。「刀」「お金」「火打石」の説明も終わり、
寺子屋のメインテーマ「自分で触る、自分でやってみる」の体験するコーナーに移った時、
A小学校の児童たちは 他の小学校の児童たちのように、舞台に近付いて来て、いろんな江戸時代のものを触り始めました。
ところが、ふと見ると、B小学校の児童たちがぞろぞろと帰り始めたのです。
私は近付いて行き、「授業はまだ終わっていませんけど、もうお帰りですか ?」と聞くと、
先生たちは返事をせず、一人の女の子が「帰ります !」。私には 何が何だか訳が分かりません。
私の授業に何か問題があったのかも知れませんが、授業終了まで残り十分弱。授業の途中でボイコットです。
授業が終了してからも この小学校は村内で遊んでいましたから、時間がなくて退出した訳でもないようです。
確かに、時間の関係だったり、面白く感じなかったという理由で、
ショーの途中で帰って行かれるお客さまはいらっしゃいます。
しかし、教育機関である小学校が先生共々、授業の途中で帰ってしまうっていうのは、どうなんでしょう?
不満があったとしても、授業が終わった後で、またはその場で、意見をおっしゃるのでしたらわかります。
私たちに至らない点があれば、改善いたします。しかし・・。
しかも、今回の場合、授業開始の一時間ほど前に 「子供達に授業を受けさせたい」と仰って来られて、
うちのスタッフが なんとかA小学校に納得してもらっての二校合同。それなのに・・。
A小学校の先生・児童の皆さんに対しても かなり失礼な態度だと思います。
もし、B小学校での授業中に、同じように、児童が「面白くないから帰る !」と言って教室を出て行っても、
先生たちは何も思わないのでしょうか・・。指導はしないのでしょうか・・。
自分の意見を押し通して、自分の意にそぐわないとすぐに切り捨てるような、
そんな事を子供達に教えてもらっては困ります。
最後に、この B小学校が、
私が今まで「教育に力を入れているなぁ」と感じていた地域にある小学校だっただけに
よけいにショックが大きかった。
(09/28/2006)
・05/04 「気味悪い」
ちょっと気味悪い出来事が続いて 2つありましたので、書いてみたいと思います。
1回目は数週間前、主役は男の子。2回目は数日前で、主役は女の子です。
どちらの子も小学生中学年だと思いますが、行動力もありいろんなものに積極的な活発な子供達です。
最初の男の子は、私がお侍さんの恰好で映画村を歩いていると、
「お侍さん、刀、抜いてみて !」「刀、触らせて !」と近付いて来ました。
刀を貸してあげると、私の刀を使って無邪気に遊んでいました。
その時、その子が明るい声で発した言葉が、
「この刀で お侍さんの首を切って、道に並べてあげようか。」
この子は 実は単に歴史的事実としての刑罰に詳しいだけなのかも知れませんが、
その言葉は神戸のあの事件の少年 Aを想像させるに十分足る言葉でした。
次の女の子は、私がお侍さんの恰好で映画村の出口でお客様のお見送りをしていると、
これまた元気な女の子が近付いて来ました。
手に持っているのは 長さ10センチ程の刀の形をしたペーパーナイフ。
「これ、買って貰った。」と私の所へ近付いてきました。
そして、私に「ちょっと手を見せて。」と女の子が頼むので、
何をするんだろうと思いながら 私は手を開いて女の子の前に私の手を差し出しました。
すると、ゆっくりした速度で私の着物の袖を少したくしあげて、
ペーパーナイフを私の手首に当てて・・・、リストカット。
しばらく、私は声がでませんでした。
どちらの子も一見、普通の子で 「明るく元気な積極的な」子なのです。
この子達の家庭環境を含めたバックグランドが全然わからないので なんとも言えませんが、
この出来事を私の中でどうとらえていいのかわからず、
この子達が大きくなったらどうなるんだろうと、気味の悪さを感じてしまいます。
私が恐いと感じる事を、ごく普通の会話の中で発してしまうこの子達のような子供達は、
日本中にどのくらいの割合でいるのでしょうか・・。
(05/04/2005)
・11/20 「寺子屋にて」
今日の仕事は「寺子屋」でした。
そしてショックな出来事が 2つありました。
1つ目の出来事。
寺子屋は通常 5回の公演がありますが、今日はそのうち 3回が予約での「体験学習」でした。
「体験学習」とは、小学校さんが寺子屋の公演を一回分借り切って、
私たちがその小学校の児童さんに江戸時代の事を教えたり、火打石を体験してもらったりするわけです。
小学校さんが映画村に「体験学習」の予約をする時は、
授業を受けるのが 3クラスだろうと 4クラスだろうと、普通は一回分の公演を予約されて
「寺子屋」の部屋の中に時には 100人以上もの児童が入り一緒に勉強します。
ところが、今日は違っていました。
同じ小学校なのに、1組、2組、3組と別々に公演を予約してありました。
10時 30分、最初のクラスがスタート。
私は、いつものように授業を開始しました。
私はこの「体験学習」を今までに 10数回行っておりますが、
始まって早々、私を無視して友達と会話をしている数人の児童を見たのは今日が初めてです。
私はいつものように児童たちと会話をしながら授業を進めようと
児童の誰かを指して「このお金は何と言うお金でしょう?」などと聞いても全くの無視です。
というより、反応がないのです。人形のように。誰を指名しても、私を見ながら無表情です。
どこの小学校にもいろんな児童はいるでしょう。先生の言うことを聞かない子もいるし、無視する子もいる。
自分の意見を言う子もいるし、言わない子もいる。いろんな子がいてもいいんです。
でも、このクラスは違っていました。
ほとんどの子供が一応私を見ているんですが、私が何もしゃべっても反応をしません。
私の質問に「わからない。」とか、首を振るとか、友達に救いを求めるとかもしません。
ほかの学校の授業だと「知らんわ !」とか、「しょーもなー !」とか言う子がたまにいます。
そんな時は私もムカッとしますが、それでも私はそういう元気で自分の意見を言える子供は好きです。
何とか、最初のクラスが終了しました。
「寺子屋」の部屋に児童が入室し始めてから退出し終わるまで一緒にいた先生は
児童に向かって一言もしゃべりませんでした。
11時 30分、2クラス目がスタート。
最初のクラスと同様で、そこには子供の姿はありませんでした。
私は半分、絶望していました。この小学校の先生は絶対おかしい、そう思いました。
この小学校は大阪近郊の小学校です。
これから、都市部の小学校というのはこうなっていくのかなと不安になりました。
こんな小学校はほんの一部だけの話であって欲しいと信じたいです。
12時 45分、3クラス目がスタート。
1クラス目、2クラス目と同じ小学校であるのに、このクラスは賑やかでした。
授業が終了しても賑やかで、普段なら小学生の「サインしてー !」の攻撃があまり好きではないんですが、
今日は全くそんな事はなく、20人近くの子供たちのノートに私の名前を書いていきました。
ついには、子供にかつらまで引っ張られて、かつらがはがれてしまいました。
引っ張られた時はさすがに私も怒りましたが、心の中ではその元気さが嬉しかったです。
3クラス目の授業がなかったら、私は一日落ち込んだままだったでしょう。
やる気のない先生は、先生をしないで欲しいです。
そして、親には責任はないのでしょうか?
2つ目の出来事。
「寺子屋」の 5回目の公演。2人の子供(兄弟でない。)が授業を受けてくれました。
この 2人は非常にいろんなものに興味を持っていて、特にお芝居や時代劇などに興味を持っているようでした。
授業が終わってからも、部屋を出て行こうとはせずに
「寺子屋」の部屋にある刀や提灯や火打石などで遊んでおりました。
2人の母親達が、「帰るよ」と声をかけても 2人の子供たちは刀でチャンバラをして遊んでいました。
何度も、母親達は「もう帰るよ。」「早くしないとおいて帰るよ。」と子供達を帰らせようとしました。
しかし、子供達はいろんなものに興味を持ってなかなか帰ろうとしません。
私が、子供達に「将来、大きくなったら東映においでよ。一緒にお芝居しようぜ !」と
言うと、子供達は「うん !」と言ってくれました。
すると、一人の母親がすかさず「大部屋俳優はしんどいよ。」と言いました。
明らかに「大部屋俳優」は嫌いのようです。
昔は存在した「大部屋」も私が東映に入るよりもずーっと前になくなり、
世間から「大部屋俳優」という言葉もなくなったなと思っていたら今日久しぶりに聞いてしまいました。
それも、差別の意味を含めた言い方で。
これは、「オードリー」の影響でしょうか。
「オードリー」のなかでは、思いっきり東映の姿を描いています。
以前の映画作りの全盛時代を描き、映画の時代が終了したら、経営が傾き撮影所が衰退し、
そのあとは以前撮影に使っていたセットを使って
撮影所を見にきたお客さん相手に映画の作り方を紹介するシーンがあったり・・・
(ちなみに、現在映画村の「ロケーションスタジオ」では映画の作り方を皆さんにお見せしております。
このショーを、NHKさんが取材にきました。その取材を元にして、
「落ち目になった撮影所が何とか苦労して撮影所の見学のお客さんに映画の作り方を紹介しているが
そのお客は数人しかいない」と言う設定で台本を作り、
挙句の果てに撮影には実際映画村の「ロケーションスタジオ」で撮影をやりました。)
「オードリー」のおかげで、死語となりかけていた「大部屋俳優」という言葉がまた復活したようです。
哀れみの意味を含んで。
子供に差別することを教えているのは、今の大人達です。
(11/20/2000)